RIDER NOTES

BC-ZR750C乗りの残しておきたいログ

淡路國攻略戦|3.命ノ尊サヲ確認セヨ!

1月17日午前5時46分

 さて、淡路國一の美味なる炭焼きアナゴにすっかり骨抜きにされた僕たち大阪連合軍は、若干の敗北感を味わいながらも、「食ったら風呂」の法則(「風呂ったら食う」も可)に則り、これまた淡路國一の絶景を誇る露天風呂を抱える「松帆の湯」に向かうべく、県道31号線を北上することにした。しかし、その前に最高司令官である僕の要望により、旧北淡町(現淡路市)にある、震災記念公園に立ち寄ることにした。

 あれは忘れもしない11年前の1月17日午前5時46分。

 低く、くぐもった地鳴りのような音で目が覚めた。 それは何百キロも遥か彼方から何か得体の知れない、見たことも聞いたこともないような大きなケモノが、こちらに向けてものすごい勢いで襲いにきているような音のように感じた。近くを走る、渋滞することで有名な国道には、ときたま暴走する車やバイクがいるが、そういう音でもない。

 当時10階建てアパートの10階に一人暮らしをしていたのだが、あまりにも妙な聞いたことのない轟音にふと不安を感じ、寒いのを我慢して寝床から抜け出して窓から町の様子を見下ろした。日の昇るのが遅い時期でもあり、あたりはまだ暗い。別段変わった様子もない。

 と思った瞬間、どーんという爆弾でも落ちたのではないかというような音とともに、視界は急速に揺れた。立っていられなくなり、思わず部屋にしゃがみこんだ。しゃがみこんだのはいいが、立って歩けない。

 僕は大阪に来る前は東京に住んでいた。今はどうかはしらないが、東京は本当に地震が多かった。震度やマグニチュードがどの程度だったのかは記憶にないが、窓ガラスががらがらと音を立てるほどの地震である。時間にして5~10秒ほどだったが、地震には「慣れている」はずだった。

 ところが「慣れている」はずの僕がしゃがみこんだまま動けない。そのうち止むだろうと思ったが、一向に止む気配がない。

 揺れ始めてどのくらいの時間が経っただろうか。その時初めて、「これはヤバいかもしれない」とかすかな恐怖を感じた。まだ恐怖が「かすか」だったのは、死ぬということに実感が持てなかったからだ。今いるのは10階建ての、決して新しいとはいえない鉄筋のアパート。それが何棟も並んで建っている。趣味の悪い将棋倒しの様が、頭の中にまざまざと浮かぶ。

 関東大震災では死者10数万人のうち、ほとんどが失火による焼死だったという。地震での初期避難では、まず失火をいかに食い止めるかが重要だ。意を決して立ち上がり、上下左右に揺れる中、よたよたとぼくは台所に向かった。流しに手をかけて踏ん張り、ガスの元栓を締めたが、「アパートが倒れて死ねば同じじゃないか」という、今から考えれば自己中心的なことを思った。

 今度は隣の部屋に向かった。服を着るためである。とりあえず靴下とコートを着なければならない。外に逃げ出すとしても、他人よりもとびっきり寒さに弱い僕は、寒さで死ぬとまではいかなくても、精神的にやられてしまうかもしれない。

 隣の部屋に入って驚いた。わずかながら、タンスが動いていて、古かったからか、観音開きのドアがぐわんぐわんと開いたり閉まったりしている。生き物のようだ。まさか倒れてはこないだろうとタンスに近づいたところで、揺れが少しだけおさまったような気がした。すぐに中をまさぐって靴下と、当時愛用していたラム革のコートを身につけたが、まだわずかに揺れていた。先ほどよりはどこか弱々しい。

 やがて、揺れは静まった。

 僕は耳を澄ました。いつもにもまして、静寂があたりを包んでいるようにすら感じた。寝ていた部屋に戻って、窓から町の様子を見てみた。揺れがおさまってしまえば、いつもと変わっていないような気さえする。ただ同じ広大な敷地の中に建っているアパートの部屋という部屋に電気がついていたのを今でもよく覚えている。

 なんだ。たいしたことなかったのか。

 僕はそうたかをくくり、そう思うと急激に眠気が僕を襲ってきた。すぐに靴下とコートをはいで布団にくるまった。布団はまだ温かかった。

 朝、僕は普段では絶対に起きない7時過ぎに目が覚めた。どこかで不安だったのだろう。朝のニュースをやっているかもしれない。夜の、考えれみれば数時間前の地震のことをニュースが取り上げないはずがない。そう思って、テレビをリモコンでオンにした。キュインという音とともに、画面はゆっくり映し出された。

 ヘリコプターからの映像だろう。これは、どこか内戦でも行われている国なのだと思った。一面の瓦礫。あちらこちらで上がる大きな炎と煙。凄惨というにはあまりに遠いところのできごとのように、僕の目には映った。次の瞬間、実況のアナウンスが言った言葉を今も昨日のことのように覚えている。

神戸の上空からお届けしています

震災記念公園

 あの地震以来、僕が淡路島を訪れるのはこれが2回目なのだが、前回家族で来たときも「天災」という名の凄まじい自然の威力に圧倒された。

 地面がわずか数十センチずれただけで、6500人もの方が亡くなった。これを無力といわずして何と言おう。

 人間にはいろんな種類がいる。優しい人、冷たい人。強い人、弱い人。器用な人、不器用な人。お金持ちの人、貧乏な人。しかし、死ぬときにそういう区別は一切なされない。ただ、訪れるだけだ。優しいとか冷たいとか強いとか弱いとか器用とか不器用とかお金持ちとか貧乏とか、そんなカテゴライズなど人間には本当は必要ないのかもしれない。でも、本当にそうなのか。そう言い切れるほど、僕は何もかもわかっているわけではない。

 神戸にある大学に通っていたTちゃんは、ちょうど一回生のときに、あの大震災に遭遇したらしい。

Tちゃん「僕も大学のみんなで救援のボランティアをしましたからねぇ」

 あの当時大震災に遭遇し、見事に生き残った人たちは、今どこで何をしているのだろうか。僕とTちゃんは居場所は違ったが、それでもこうやって元気に生きてツーリングを楽しませてもらっている。

震源である野島断層が140mに渡って保存されている

断層がはっきりと見えます

オレンジ色の畦が元は一本。赤白の矢印が、断層がどう動いたのかを示してくれている

わずか50cm動いただけで6500人が亡くなった

断層の真上に建っていた民家。震災当時の様子を生々しく伝えている

Tちゃん「こんなのまだマシじゃありませんかね。当時はもっとすごいことになってた家を山ほど見ましたから」

震災発生の時刻のまま止まった時計

 平日だというのにたくさんの人が訪れていた震災記念公園だったが、震災体感センターには人影が全くなかった。ここは阪神・淡路大震災での地震を再現し、それを体感できるというもの。起震車を利用した阪神・淡路大震災の揺れを体験した後、椅子に腰掛けながら係のお姉さんに聞いてみた。

bar「あの音は?」

 くぐもってはいるが明らかに恐怖を呼び起こすような地鳴りのような音がスピーカーから聞こえる。

お姉さん「阪神・淡路大震災の際に実際に録音された音です」
bar「この揺れも?」
お姉さん「そうです。阪神・淡路大震災の実際の揺れを再現しています。直後の余震を含めると時間にして40秒になります」

 そうか…。あの揺れは40秒も続いたのか…。とてつもなく長かった。あの朝の40秒。僕は一生忘れない。

 ひと通り見学を終了させ、厳粛な気持ちになった僕たちは売店コーナーに立ち寄ってみた。すると、

Tちゃん「司令官殿!!!」
bar「なんだね。このような雰囲気の中、何を慌てておる」
Tちゃん「敵機を発見しました!」
bar「何っ?! どこだ?!」
Tちゃん「アソコです!!!」

 Tちゃんの指さした先にあった看板には、

bar「た、たこロッケ…。なんとベタな…」
Tちゃん「いや、淡路軍は侮れません!」
bar「うむ。確かに。では食らってやろう」
Tちゃん「ラジャー!!!」

 ふと見ると、レジのすぐ脇には、「淡路島特産・びわソフト」なる手書きのインフォが。

bar「すいませ~ん! びわソフトも~!」

 淡路島は日本屈指のびわの産地。その本場であるびわのソフトクリームは、とにかく暑い日には絶品! そしてお目当ての「たこロッケ」はというと……

Tちゃん「んがっはぁんがっはふふんはへはへんっ

 何を言いたいのかさっぱり解読不能だが、そうとう熱いというのは臨場感たっぷりに伝わってきた。お味は…普通のコロッケかなぁ。

松帆の湯

 僕たちは敵機のたこロッケ爆弾の絨毯爆撃にも屈することなく、すぐ近くにある絶景露天風呂を擁する「松帆の湯」に向かった。

「美湯(びゅ~)松帆の湯」は、震災記念公園からわずか5分足らず。さっきの「たこロッケ」といい、この「美湯」を「ビュ~」を読ませたり……意外と淡路島の方たちって、ベタなのね。眺めはご覧いただいた通り。結構いいよ~。

 時間帯からか、お客さんの数も少なくて、貸切とはいかなくても、ほぼそれに近い形で明石海峡大橋の眺めを堪能しました。

(つづく)