やってきましたGW。やきもきしていた天気も連日快晴の予報に、「これは神の思し召しに違いない」と都合よく解釈して早速出発。
今回のツーリングは、郡上八幡だー白川郷だーとメジャーな観光地を抱える岐阜の比較的マイナーなスポットから福井へ抜けてやろうという、特に意味などないコースだ。いや、本当は意味がある。というか、正確には「意味はないわけではない」のだが、そのあたりは後述しよう。とりあえず、諸事情により久しぶりに大荷物を積んでいることは許されたい。
久しぶりのキャンプツーリングの出だしにもたついてしまい、暖機橋を出発したのは7時半。渋滞をかわそうと思えばもっと早くに出るべきなのだが、それはもうね、いろいろと無理なのよ。
普段どおりの近畿道から、
ババ混みしていた第二京阪への分岐を無の境地で乗り切る。第二京阪はいざ入ってしまえば片側3車線の広く比較的真っ直ぐな道だけにうまい具合に流れるのだが、京滋バイパスではまた軽く渋滞。
しかたがないよ、GWだもの。みつを。などと心で呟きながら半クラ連打で左手が休まらない超絶微妙な渋滞15Kmをやり過ごして名神に入ったら、普段はあまり寄らない多賀SAへ。
思ったほど混んでないトイレでいつものごとく朝の儀式を厳粛に執り行い、養老SAを越えてすぐにある大垣ICで行きの高速は終了。
ここからはR258を北上。国道沿いだけどどこかのんびりした空気を醸し出している大垣の街の中を走り、
「奥の細道結びの地記念館」へ。街なかに意外としっかり案内看板があるので助かった。
記念館の名前の通り、ここ大垣は「奥の細道結びの地」なのだが、
なぜ松尾芭蕉の資料館なんぞに来たのかというと、「青春ブタ野郎は大垣の街をまだ知らない」の
デジタルスタンプラリーの景品交換所が、この「奥の細道結びの地記念館」だったからだ。
というのはウソで、大昔にちょっと流行った「あなたの前世は偉人に例えると誰?」みたいなアンケートにジョークだとわかっていながらわりと真剣に答えてみたら、「あなたの前世は松尾芭蕉タイプ。いくつになっても放浪癖がおさまらない自由人」みたいな回答が出たからだ。たったそれだけのことで芭蕉に対して勝手に親近感を持っているのもどうかとは思うが、まぁそういうことだ。
ちなみに「青春ブタ野郎がどーのこーの」はこのツーレポを書くために必死で調べたネタにすぎないことを付しておこう。
「奥の細道」各地での名場面を解説してくれている芭蕉館には、学校の教科書にも載っていた旅立ちの「草の戸も 住み替はる代ぞ 雛の家」、「行く春や 鳥啼なき魚の 目は泪」に始まり、日光の「あらたふと 青葉若葉の 日の光」、平泉の「夏草や 兵どもが 夢のあと」、「五月雨の 降り残してや 光堂」、立石寺の「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」、最上川を前にした「五月雨を あつめて早し 最上川」、新潟に入って「荒海や 佐渡によこたふ 天の河」、2400Kmとも言われる長旅の名場面について、「おくのほそ道」の文章と句の解説を展示している。
あまり知られていないと思うが、「おくのほそ道」の旅の終わりじたいは敦賀である。大垣は「終わりの地」ではなく「結びの地」。芭蕉がなぜ大垣を「おくのほそ道」の結びの地としたのかはわからないけど、芭蕉をひきつける何かがあったということだろう。
ちなみに、「奥の細道行脚之図」に描かれた芭蕉(左の人)の絵は有名だが、
この時、芭蕉46歳。人生50年なんて言われてた時代だから(現に芭蕉は満年齢50歳で逝去した)、現代で言うなら70歳くらいの感覚だな。70歳のときに、ぼくはバイクに乗っているだろうか。
記念館のすぐ横を流れる水門川沿いは桜で有名らしく、きちんと整備されていて市民や観光客に開放されている。その中に船町港跡はある。
「おくのほそ道」の旅を終えた芭蕉は、ここ大垣で門人たちに歓待を受けたものの、ひと月もしないうちに今度は伊勢神宮を参拝するため、この船町港から皆に見送られながらまた旅に出たと言われている。その際に詠んだのが、「蛤の ふたみにわかれ 行く秋ぞ」(「おくのほそ道」結びの句)。
「離れがたい蛤の蓋と身とが分かれるように、私は親しい者たちと別れて伊勢の二見が浦へと行こうとしている。折から秋という季節も去りゆこうとしていることだ」と、離れがたい親しい人たちとの別れを惜しんでいる。
旅が終わっても、また旅は続く。そこに芭蕉は自分の人生を重ねていたに違いない。
今回のぼくのツーリングも、高速を下りたこの街・大垣から始まる。ぼくにとっても、ここ船町港は新たな出発点となってくれるだろうか。
なんちゃって。
(つづく)