rider notes

BC-ZR750C乗りの残しておきたいログ

近江・美濃|1.醒ヶ井

 まだまだ残暑も厳しい中、正直「温暖化だかなんだかよくわからんが、もうこのまま地球は滅亡しちゃうんじゃねーか?」と内心思ったりする今日このごろ。

 夏のスーパースペクタクル級激務をなんとかクリアし、月末になって数日休みをぶん取ってます。そんな本日、もういいかげんケツがうずうずしてきておりましたので、猛暑も顧みず、久しぶりに四郎号とおでかけでございます。

 行き先は……この猛暑ですからね。やっぱり涼を求めたい! ということで、何年ぶりかさっぱり覚えていない……というか行った記憶ももうほとんどない醒ヶ井に。梅花藻(バイカモ)は咲いてるかな~。

 とはいえ、家を出たのが9時過ぎという体たらく。信州や九州に行くならはりきって早起きしちゃいますけど、それ以外なら夜明けとともに出発なんてもうできそうな気がしません。

 家を出たあたりでは、「まぁまだよゆーやな」というレベルの暑さでしたが、京滋バイパスにある長~~いトンネルの中が暑くてもわ~んとしててキツかった~。そこからはもう汗だくです。

(いつもの草津PA

 草津PAからはいつものごとく「どこまで行っても静岡県 on 東名」と並ぶ苦行、「いつまで走っても滋賀県 on 名神北陸道」に突入です。

(唯一ほっこりするのが近江富士が見えたときだけ)

 とはいえ今日は北陸道にスイッチしたらすぐにある米原ICで高速はおしまい。そこからはR21を関ヶ原方面に進みます。

 高速から下りたら当たり前ですが巡航速度は落ちるわけで、巡航速度が落ちたら暑さも倍増するわけで……目の前のタンクローリーがの~んびり走ってくれたおかげで数分で到着するはずのところを10分近くかかりましたが、なんとか醒ヶ井駅到着!

(意外と味も素っ気もない趣の駅舎)

(すぐ横には醒井水の宿駅)

 「何はなくとも駅に行け」は若かりし頃の放浪時代に先輩放浪民に教えられた鉄則。「観光案内所か、少なくとも観光パンフレットは置いてある」(彼談)というのはまさに真実であって、今回もほぼ人けのない待合所の片隅にちゃんとパンフレットがありましたので、ありがたくいただきました。

 駅前から早速醒井宿へ向かうと、いきなり出てきました。

どん!

 こちらは米原市醒井宿資料館。入り口横に懐かしいポストがあるところからもわかるとおり、元々は郵便局局舎。1915(大正4)年に創建されてから1973(昭和48)年まで使用されていたとのことで、同じ滋賀の近江八幡市と縁の深いヴォーリズの設計とされており、現在では登録有形文化財です。ヴォーリズっていったら我々の世代的にはメンソレータムですな。

 そこから少し進むと、ちょっとした川(地蔵川)が見えてきて、それを渡る小さな橋があります。醒井宿はここから! って感じですね。

 とりあえずひと通りさーっと流して東の端まで行ってみると、石碑。

 江戸時代の宿の絵地図が飾られてました。

 たくさんの家(宿場なのでお店含む)が描かれているのがわかりますね~。醒井宿は中山道69宿のうちの61番目の宿場町で、天保期(幕末近く)には138軒人口539人。本陣・脇本陣がそれぞれ1軒、旅籠も11軒。同じ中山道の宿場町で観光名所にもなっている妻籠は同じ天保期で31軒人口418人(本陣・脇本陣各1軒、旅籠31軒)、同じく観光名所でワタクシが火事で死にかけた馬籠は同時期に69軒人口717人(本陣・脇本陣各1軒、旅籠18軒)といったところなので、ここ醒ヶ井も宿場町としてはそれなりに大きかったんですね。

 ちなみに江戸時代といえば、歌川広重が「木曾街道六拾九次」に醒井宿を描いているのです(by wiki様)

By 歌川広重 - The Sixty-Nine Stations of the Kisokaido, パブリック・ドメイン, Link

「生活道路につき一般車両の通行はご遠慮ください」という看板も目についたので、ここからは四郎号を押しながらのんびりと散策しますか。と思ったらいきなり大きな鳥居と石垣と階段と灯籠が見える加茂神社。

 そしてその石垣下のところには「居醒の清水」。

 その昔、日本武尊とこの居醒の清水については「古事記」、そして「日本書紀」に書かれています。古事記には「素手で伊吹の神と対決しにいった倭健命(=日本武尊)の前に大きく白い猪が現れるが、これは神の使者だろう。帰るときに殺せばよいと無視した。ところがこの猪は神そのものであり、神は大氷雨を降らして倭健命は失神する。山を下りた倭健命は居醒の清水でやや正気を取り戻した」、日本書紀には「伊吹山の神の化身である大蛇が道を遮るが、日本武尊は神を殺すのだから神の使い(=大蛇)を相手にする必要はないと無視してしまう。神は雲を興し、氷雨を降らせ、峰に霧をかけて谷を曇らせた。そのため日本武尊は意識が朦朧としたまま下山する。居醒の泉(=居醒の清水)でようやく目を覚ました日本武尊だが病身となり(以下略)」。

 まぁ難しいことはおいといて、要するに記紀文学の頃からあるということが大事ナノダ。

(奥でにこやかに手を振る日本武尊

 しかしそれにしても宿場を流れる地蔵川が清涼すぎる~。

 そりゃね。こんだけ冷たそうな水を見たら、今日の気温なら手の一つも浸したくなりますよね!

(ちべたー!!!!! ひゃっこ~い!!!!!)

 しかし慣れているとはいえ総重量200Kgをゆうに超える四郎号を押してるとそれなりに汗だくにはなるわけで、手を水に浸して冷た~くなっただけにもう我慢がならずにジャケット脱いじゃいましたよ(当たり前か)。

 少し進むと……むむむっ。梅花藻か?!

 まだ小さくて白い花をつけてくれてます。途中にあった看板には9月末あたりまでは開花しているということだったので滑り込みセーフでした。

 そして見えてきたのが、先ほどの旧醒井郵便局局舎とともに現在は資料館になっている旧問屋場(といやば)。

 問屋場とは江戸時代の宿場で人馬の継立てなどの業務を行ったところ……ま、早い話が醒井宿を通行する役人たちへの人馬提供、荷物の積み替えなんかの引き継ぎをやっていた場所ということですね。江戸時代にはこういうふうに「宿駅」というシステムがあったわけです。しかしここ醒井問屋場がすごいのは、日本に現存する問屋場としてはたった3つしかないうちの1つであるということ(あとは甲州街道 府中宿、中山道 奈良井宿)、そしてほぼ完全な状態で保存されているということで、創建1700年代前半! すげーよ醒井宿。

(醤油屋喜代治商店)

 こちらは何だかわかりませんでしたが、明治天皇御中輩所。

 了徳寺を越えたところでふと地蔵側を見ると、何やら石灯籠が。十王水でした。

 十王水平安時代に開かれた水源で、先ほどの居醒の清水、西行水と並んで地蔵川の清水を支える貴重な水源。とここまでくれば、何が何でも西行水も行かねば! と宿場から少し外れた地蔵川下流にあたるところにありました。

(ここはやたらと整備されてます)

 東へ向かう旅の途中、ここにあった茶店に立ち寄った西行法師。法師が立ち去った後、彼が飲み残したお茶の泡を飲んだ茶店の娘さんが懐妊して男の子を出産。帰路にこの話を聞いた西行が、「もし我が子ならば元の泡にかえれ」と念じると、その子はたちまち泡になった。………となにやらツッコミどころ満載の話があるみたいです。その話から「泡子塚」と言われるようになったとか。横をふと見ると水琴窟。

 水琴窟と聞いちゃぁ黙って見過ごすわけにはまいらぬ。

 ここで時計を見るとちょうど12時お昼ドキ。観光客目当ての宿場でお昼をいただくほど贅沢もできない身とあってはしかたない。さっきの駅の横にあったところで昼メシにでもすっか。

(つづく)