rider notes

BC-ZR750C乗りの残しておきたいログ

信州|6.霧ヶ城

岩村城址到着

 その昔、武田氏にはま~ったく興味がなかったので、この岩村城には一度も来たことがなかったんですよね。なのでどこまでバイクで行けるのか一抹の不安を抱きつつ細~いヘアピンが連続するけっこうな上り坂をひーひー言いながら(四郎号が)進んでいきます。対向車が来たらどうすんの的な幅です。

 最後はダートが10mほど続いて、出てきたのは出丸駐車場というところ。

 出丸というのは、二の丸や三の丸、西の丸、有名なところだと大坂の陣の時の真田丸の「丸」と同様、兵站拠点とした場所のことか。

(出丸駐車場からはいきなりこの石垣がお出迎え)

 岩村城は霧が多く発生するところから霧ヶ城とも呼ばれるお城。源頼朝の信任厚かった加藤景廉(かげかど)の子・景朝(かげとも)が遠山荘を相続して遠山氏を名乗ったのが始まりとされています。16世紀に入って織田、徳川、武田の抗争の地となって本格的な城山が構築されるようになり、1572年に武田信玄公が家臣・秋山信友に命じて攻城させ、当時、坊丸(信長五男)を幼主としつつも女城主として差配していた信長の叔母は信友との婚姻を条件に開城。1575年に設楽が原にて勝頼公が織田・徳川連合軍に大敗すると同年信長は嫡男・信忠に命じて攻城を開始し、5か月の籠城戦の末に開城。秋山信友と、その妻となった信長の叔母は長良川河川敷で逆さ磔となり刑死するのである。

 信玄公が攻めても信長が攻めても、決して戦いに「敗れて」落城したわけではないところが、この城のすごいところ。それもそのはず、本丸の標高が江戸諸藩中最高の717mに位置しており、今では「日本三大山城」にもなっているノダ。1600年の関ヶ原合戦の後に入城した松平家乗(いえのり)は藩主居館を本丸から山麓に移し、そこを中心に城下町を形成したくらい上るのも下るのも大変だったお城ということになる。

六段壁

 出丸から本丸にするっと上がり、反対方向に下りていくと、なにやらご立派な石垣が。

 この雛壇状になった石垣は、案内の看板によると「六段壁」。元々は最上段の部分の石垣だけだったそうだが、崩落を防ぐためにその前面に補強するために新たに石垣を作ったのを5回くらい繰り返したことで合計「6段」になったそうな。斜めから見てたらカッコいいけどほんまに「六段壁」かよくわからんので正面に回って見てみたら、

 ほんまに「6段」でした。

霧ヶ井

 そこからは道なりに進んでいったら「霧ヶ城」の別名のもととなった「霧ヶ井」という井戸。案内板によると、敵が攻めてきたときに城内に秘蔵された蛇骨をこの井戸に投じると、たちまち霧がわいて城を守ったという言い伝え。この蛇骨は二の丸の宝蔵に収蔵されており、過去に虫干しされた記録も残っているそうな。

 出丸駐車場に戻ったのが1時半。ここからのんびり帰ったらうまい具合に晩ごはんに戻れるぞ~。旧藩主邸跡に建てられた歴史資料館とかにも行きたかったのだが次のチャンスに残しておこう。

高速でびゅーん

「ゆったりと山間を行く涼しいルート」by ツーリングマップルのR257を北上したらやがて恵那ICの看板が出てきます。

~本日のルート~

 中央道に乗った途端にすげー風。ふとミラーを見たらバッグの上に載せた寝袋がズレて落ちそうになっているではないか。ものすごい風圧に耐えながら後ろに手を回してネットを元に戻しつつひーこら言いつつなんとか養老SAに到着。一服しつつ上を見上げたら、旗もやっぱりびゅんびゅんなびいてました。

 その後も定番の草津PA。ここまではけっこうバイクもいてそれなりに休みの日を実感してましたが、

 最後には必ず寄る岸和田SAではバイクがほとんどおらず、ちょっとしょぼん。

 なんかやたらとツバメが飛んでるな~と思ってよく見てみたら、巣立ったばかり? のまだちっこいツバメがキャーキャー言うてたみたい。最後になんだか癒されました。

(おしまい)