R153は美しい道だ。本当にどこからでも長閑な田園とアルプスが見える。ちなみに現在の「barちゃん的住みたい町ランキングTOP5」は以下のとおりである。
1位 飛騨高山
2位 信濃大町
3位 駒ヶ根
4位 伊那
5位 諏訪
ちなみに実現する可能性が極めて低いとだけ付け加えておこう。
次にボクが目指すのは大島城址である。R153からは松川町に入って脇道に逸れたらあるハズ。突然「←台城公園行くならコッチ」的看板が出てくるのでぐるんと脇道に逸れて、ほんまにこの道で合うてんかよ…と思いながら進むと、
台城公園の駐車場(無料)が現れます。
大島城は武田家の支配時代に伊那谷の拠点とされ、重臣・秋山信友に改修築城させた重要な城。勝頼公の時代には、叔父・武田信廉を城将としていたのだが、1582年に織田軍が侵攻してくると信廉は戦わずして武田家本拠地・甲斐に逃亡。結局、この大島城は大軍の織田軍を前に自落してしまったのである。
ちなみに、亡き信玄の弟であり、一門衆の筆頭とも言われていた信廉の敵前逃亡は織田軍の士気を上げ、武田家の士気を著しく下げてしまうことになるのだが、仁科五郎盛信公をはじめとした高遠城の城兵たちの士気だけは上げることになるのだ。
2月29日、攻め手の総大将だった織田信忠(信長嫡男)が、盛信公に書状を送って降伏を促したとされている。
「武田勝頼は不義なので退治する。木曽(義昌。勝頼の義弟)、小笠原らも降伏した。上飯田、大島まで自落したのに、城を堅く守っているのは神妙なことである。しかし、勝頼は昨日、諏訪をひき退いている。早速出仕し忠節を誓うのであれば所領は望みのとおりにするし、黄金百枚を差し上げるものである」
これに対して我らが盛信公は、籠城する守備隊一同の名でただちに返書をしたため、使者としてやってきた僧侶に対し、「仏につかえる身でありながら、このような役目を負うのは言語道断である」として、その僧侶の耳と鼻を削ぎ落して送り返したとされている。
その盛信公の返書には、
「信玄以来、信長に対しては遺恨を重ね持っている。ようやく残雪もなくなったので、勝頼は尾張・美濃へ織田討伐として動き、鬱憤を晴らそうかと思ったいた。ところがそちらが発向してきたので籠城しているまでである。一端一命を勝頼に武恩として報いるものであり、不当不義の臆病な輩(やから)と同じにしないでもらいたい。早々に馬を寄せて攻められよ。信玄の頃から鍛錬してきた武勇、手柄をお見せしよう」
結局わずか1日で高遠城は守備兵がほぼ全滅するのだが、それにひきかえ信廉のテイタラクぶりはいかがなもんだろうか。これが名門・甲斐源氏武田家の終焉なのである。
ところでこの大島城址は先ほどの写真にもあったように現在、その別名をとられて台城公園として整備されているが、その城全体の遺構は比較的よく残されていることでも知られている。
駐車場から入ると、まずは「三日月堀」と呼ばれる堀がある。
さらに進むと、武田流築城術の特徴でもある、丸馬出し跡が見えてくるので、
上にのぼってみた。
そこから進むと三の丸跡がまずは見えてくるので階段を上がってみると、パターゴルフのコース(さらに進むと弓道場)になってたのは笑った。
そして遠くにこいのぼりが見えてきたところが二の丸跡。
二の丸跡はこいのぼりのはためく児童公園にもなってて、
児童公園の部分以外はただの広場になってるのだが、かなり規模が大きいことがわかる。三の丸、二の丸とたどり、本丸へ。その途中、やたら華やかになってきて、見事につつじが咲き誇ってました。
後で知ったのだが、大島城は今は「つつじの公園」として有名なんだそうな。高遠城は言わずと知れた「桜の公園」。これは偶然なんだろうか。
つつじを後ろに進むとやがて本丸跡にたどり着きます。
本丸は城の中枢。この規模だとけっこうな大きさの城であることがわかる。
そこに井戸跡とあったのでさらに奥に行ってみる。
本丸から井戸跡へはぐんぐんと下っていく。やがて見下ろせるところに何やら囲いが見えてきて、
それが井戸跡。
落城の際には、お姫様がこの井戸に身を投げたというもの悲しい言い伝えもあるそうな。
これで大島城址めぐりはおしまい。これだけの規模を誇りながらも、戦うことなく落ちた城。もう来ることはないだろうな。自落するような城に思い入れは何もない。
駐車場に戻って遠くのアルプスを見ながら、またツーリングマップルを見て作戦会議。
しかし歩き回ったので暑い暑い……。このあたりではもう気温は軽く25度近くになってたこともあって冬ジャケも脱いでTシャツ一枚の夏仕様に。
県道428号線でR153をまたいで進み、
「R153よりも快適に走れる」という県道15号線を北上。次なる目的地へと向かったのである。
(つづく)