RIDER NOTES

BC-ZR750C乗りの残しておきたいログ

信州|8.最後? の景徳院

 諏訪の町は狭い。

 したがって道は狭いながら、どこに行くにもササッと行ける。高島城からR20に出るにもあっという間である。

 高島城の大手から伸びる道を道なりに進み、JRの踏み切りを越えるとすぐにR20への合流地点。踏み切りと信号の距離があまりに短いこともあって、さすがに車が数台いるだけですでに大渋滞。

 R20も茅野あたりまではバイパスになっていて情緒もへったくれもないものの、茅野を越えて富士見、そして「小淵沢」の青看板も見える蔦木あたりになると、視界の中に緑の割合が徐々に増える。いよいよ信濃國と本当にお別れし、甲斐國へ。そしてにっくき穴山玄蕃の本拠地・韮崎の地に入ると、R20は再びバイパスになる。そして視界が一気に開けたかと思うと、正面にはどばばーんと富士山の姿。

 昨日僕が訪れた新府城が築かれた七里岩台地。つまり昨日行きに通った時には、富士を背負った状態で僕は走っていたことになるのである。勝頼公も新府の地から、この富士の姿を眺めていたのだろうか。

 韮崎、甲府の南側、勝沼のバイパスをひた走ると、R20は再び片側1車線の山あいによくある国道に。そして笹子峠の入口の看板を越えると、そこは田野の地。 勝頼公、そして信勝公、北条夫人へのお礼のご挨拶をせずに素通りするわけにはまいらぬ。

 この画像を皆さんに見ていただくのももう何度目かわからない。お付き合いくださってありがとう。

 今回のキャンプツーリングでの道中を無事に走れたのも勝頼公のおかげ(ここまでくると宗教に近いような気もする)。そのお礼を手を合わせて心の中で述べておいたのである。

 景徳院境内を取り囲む天目山を見上げる。

 僕が特殊任務遂行のために四郎号と魔都にやって来て、かれこれ1年と1ヶ月。その任務もそろそろ終焉を迎え、そろそろ本拠地へと戻る日も近づいている。そう考えると、もうここに来ることもできないかもしれないな…とちょっぴりセンチメンタルな少女アッコちゃんな気分でもある。しかし、勝頼公はいつでも僕の心の中にいるのである。

 あとはこのレポをお読みいただいている方々のために、もとい、正直に言うと自分への備忘録のために、今までこのサイトでご紹介していない景徳院での見所をご紹介しておこうと思う。

 この松。勝頼公らの自害の石から山門をくぐって本堂へと進むと、その前にある松なのであるが、これは旗竪松(はたたてまつ)と呼ばれるもので、すぐ横の看板の言葉を借りれば、「勝頼公、事すでに急迫なるを見て武田家累代の重宝旗(日の丸の御旗)を大松の根本に立て、盾無鎧を世子信勝公に着用させ、かん甲の礼を行いし処」 とある。

 わかりやすく言うと、「勝頼公は、(滅亡の)事態がすでに目前である状態を悟り、武田家累代の家宝である御旗(みはた)を大松の根元に立て、楯無鎧(たてなしのよろい)を信勝公に着させ、甲斐源氏家督を継承するための伝統ある古式(かん甲の礼)を執り行った所ナノダ」というわけだ。

 本来、甲斐源氏の正統である武田氏の家督継承式である「かん甲の礼」は、通常、同盟国の当主(信玄時代でいえば、たとえば今川義元北条氏康とか)が烏帽子親(烏帽子を被せる役目)になるのだが、その時の武田氏にはもちろん同盟国など一つもなかったので、信勝公は家臣の土屋惣三を烏帽子親として執り行ったという。甲斐源氏・武田氏の儀式としてはなんとも侘しいものに感じる。

 あとは無事にアパートに戻るだけ。R20~相模湖~津久井湖~相模原といつものように大渋滞をひ~こら言いながらすり抜けでかわし、予定通り午後6時過ぎには秘密基地へとたどり着くことができたのである。

(おしまい)