RIDER NOTES

BC-ZR750C乗りの残しておきたいログ

信州|1.甲斐入國

プロローグ

 入梅してからというもの、「雨らしくない」だの「梅雨らしくない」だのとさんざんな言われようの梅雨であり、僕には「肝心な時だけ雨が降るにっくき野郎」に思えて仕方がない梅雨でもある。

 6月ラストの週末も前々日(木曜)まではしっかり雨の予報(日曜はかろうじて曇り)。なんだかなぁと思っていたところ、日頃の僕の善行の甲斐あってか、前日の金曜にはついに梅雨クンも折れたもようで 「雨さえ降らんかったらええねやろ」 とばかりに、土曜…曇り、日曜…晴れの予報に変更。

 ただし僕の善行が本当にあったかどうかは別問題である。僕は前日にはちゃっかりキャンプの支度をしておき、当日は目覚ましもセットしてないのに、珍しく6時きっかりに起床。さすが善行を積んできただけのことはある。ただし本当に善行を積んでいたのかどうかは別問題である。

 顔をざっぷりと洗っただけで荷物を四郎号に積み、僕と四郎号はそそくさと中原街道から保土ヶ谷バイパスを経由してR413で津久井湖、R412で相模湖まで進むと、あとはお決まりのR20。

 いつもなら乗った瞬間吐き気がするほど渋滞しているはずの保土ヶ谷バイパス、R413、R412が、朝早かったせいか恐ろしいほど車が少なくてすり抜けする必要が全くないほどするするするするするするするすると進んでしまった。

 R412からR20に入った途端、フツーならすでに車が道に溢れているのだが、ここでも車はいても流れはけっこうスムーズ。よしよし。ここらまでくると、もう緑の匂いがあたりに満ち満ちている。

 わかりにくいかもしれないが、「雨上がりの夏の朝の、緑と土の匂い」 これを想像してみてください! どこか懐かしいような、どこか下腹部辺りがもぞもぞっとしてきそうな、わくわくする感覚。もうこれだけで早起きして走りに来ただけのことはあるというものだ。中央道の上野原インター、そして上野原市街地を抜けると、辺り一面は、山、山、山、山。甲斐國はまさしく山の國だ。

 大月の岩殿山(勝頼公を最後の最後で見捨てた小山田信茂の城のあった山)を右目で一瞥しながらR20を快適に進み、やがて笹子地区へ。以前は笹子峠越えを敢行した僕ではあるが、今日の目標はもっと先にある。今回は素直に新笹子隧道をストレートにGo!!

 それにしても天気はいいのか悪いのかさっぱりわからん。気温はすでにそうとう高い(電灯掲示板で最高27℃を記録)のだが、空を見ると晴れ間が覗いてるような、それでいて雲は分厚いような……。そういや天気予報のお姉さんの、「今日は急な通り雨にご注意くださいね。ウフ♪」という言葉がミョーに気になる。念のために断っておくが、気になったのは「通り雨」という言葉であり、「ウフ♪」ではないので、くれぐれもご注意になられたい。

景徳院

 そんなこんなでR20を進むと必ず寄らねばならないのは、勝頼公の墓所である景徳院。というか、前世は武田家の家臣であった僕としては「景徳院入口」という名前の交差点を素通りするわけにはいかんのである。

 前回まだ花が咲いていた姫が淵の桜の木だが、今日は濃い緑を見せてくれていた。

 今日も鎮座する勝頼公、信勝公、北条夫人の墓石。ちゃんと道中の安全をお祈りしておきました。

 さて、R20も勝沼甲府を抜けて韮崎に入る辺りから左手には南アルプス方向がスパッと開けて見えるのだが、どうにも雲がどんより……

 ま、今回は何も南アルプスに登るわけでもなし。ここは気にしないことにして、R52との分岐を右に入って県道6号線(まもなく県道17号線)にスイッチ。 R20とはうって変わり、交通量はほとんどないに等しい県道17号線は、釜無川に沿って延々と続く七里岩と呼ばれる奇岩にちなんで「七里岩ライン」と名付けられている。

新府城

 その道を進み、しばらく行くと新府駅を越え、そして見えてくるのは、勝頼公最後の居城であった新府城城址があるのだ。

(鬱蒼とした小山を指し示す新府城址の案内看板)

(正面から山頂のある本丸にまっすぐ伸びる階段)

 ここらでもういいかげん暑さが限界だったので、着ていたメッシュジャケットを脱いで肩に担ぎ、えっちらおっちらと階段を登っていくと、そこには藤武稲荷神社がございまして、そこが新府城の本丸なのであった。

 新府城は先述のとおり、勝頼公が古府中にあった武田三代(信虎、晴信、勝頼)の居館・躑躅ヶ崎館から新たに出発するべく築いた城。 古府中は山を背負った地形であり、より発展的な商工業都市を築くのが難しかったため、勝頼公が穴山玄蕃(信君)の進言にしたがって縄張りをし、「信玄の眼(まなこ)」と言われた真田昌幸真田幸村の父)を奉行に任じて築城したといわれている。

 結局、築城用の木材調達を命じた木曽義昌が負担を嫌って織田方に寝返り、元は自らの領地であった場所に築城を進言した穴山玄蕃は徳川方に通じて勝頼公を裏切るという有様であって、勝頼公にとっては因縁浅からぬ城となってしまったわけだが、西の釜無川、東の塩川に挟まれ、しかも釜無川沿いには七里岩が控えるという天然の要害であり、ここは甲斐の北側に位置するものの、商工業都市を発展させるには最適な場所であったといえよう。

 天正3(1575)年の長篠・設楽が原の戦いで徳川・織田連合軍に大敗した勝頼公がその後領国内の支配を強化し、集権国家を築くためには必要だったともいえる。天正9(1581)年、真田昌幸に普請を命じ、築城が開始。年末にはまだ不備があったものの、勝頼公、嫡男・信勝公、そして北条夫人らは躑躅ヶ崎から移ってくるのだが、翌天正10(1582)年2月に木曽義昌が織田方に離反。続いて御親類衆筆頭の穴山玄蕃が徳川方に離反することが明らかになり、勝頼公は未完成の新府城で対抗するには無理があると判断し、城に放火して落ち延びることにしたのだ。要するに、この新府城と勝頼公とはわずかな間しかともにしていないことになる。 汗を拭きながら、本丸跡を見渡してみる。

 まさに、兵(つわもの)どもが夢の跡。そこかしこに、勝頼公の無念さがいまだに漂っているようにも思える (-ω-) 訪れていたのは僕の他には老夫婦1組のみ。別に大勢で賑わっててほしいわけやないねんけどね。でもやっぱり寂しいかな。

 まだセミが鳴く季節ではないけど、しかし黙ってても汗が流れてくる…。必死の思いで登ってきた階段を下りていくと、ふもとには赤ちゃんを抱っこした若夫婦。たいそうなカメラを持った奥さんが、ダンナさんに抱っこされた赤ちゃんに何ごとかを話しかけながらレンズを向けていたりする。そんな光景を見てたら、勝頼公も少しは気が休まっていてほしいとも思う。

 四郎号のところに戻り、暑くてイヤやったけどメッシュジャケットを着て、再び県道17号線を北上することにした。

 しかしここに来て晴れてきてるものの、左手の南アルプス方面、右手の八ヶ岳方面には、「どんより」というにはあまりにも足りんほどの分厚~い雲が…….。晴れているというのに、なんだか気分もどんより。

 南アルプス方面。ってかアルプスなんてかすかに一部の稜線が見えるだけ….

 八ヶ岳方面。こちらはこれから麓をぐるっと走る方向であるだけにかなり切実……。しかし、ここでへこたれるbarちゃんではない。ここまできたら雨にでもなんにでも打たれてやろうぢゃないの。ツーリング中の雨なら、まぁ許せるぞ!

 …などとカッコつけてはみるものの、やっぱり雨に降られるのはあんまり気持ちのいいもんじゃない。心の中では、「どーか、雨は降りませんように……」と念じながらも、「この週末に雨が降らなかったのも、日頃の善行の賜物のはずや」と、本当に善行があったかどうかはさておき、けっこう気楽に一台の車もいない県道17号線を進む。そして僕と四郎号は、もうじき小淵沢に着こうとしていたのである。

(つづく)