rider notes

BC-ZR750C乗りの残しておきたいログ

信州|7.諏訪

諏訪湖

 松本タクシー様で見せてもらった地図を見るとR19はそれこそ片側2車線はある主幹国道かと思いきや、片側1車線でしかも道幅の狭い旧国道のような道。ま、それでも久々のようにすら感じる市街地走行のリハビリにはちょうどよかったかな。

 しかし天気よすぎ。っていうか、ビーナスライン走った昨日がこんな天気やったらよかったのに…まぁ今さら言ってもしかたないけどね。

 車で溢れるR19をすり抜けせずにちんたら走っていると、霧ヶ峰の方向をみると、見事にキレイに稜線が見える。ちょっと脇道に入って四郎号を止め、しばしメッシュジャケットを脱いで一服。

 R19で塩尻に入ってR20にスイッチすると、そこからは市街地を抜けていく。松本・塩尻と諏訪を隔てる塩尻峠を越えるため、標高を600m前後から1000mほどに上げていくワインディングになるのである。あいかわらず片側1車線のままだが、上り坂ではちゃんと登板車線があってストレスはなし。

 峠を越えた途端、眼下にパカッと開けて、諏訪湖が見えた!

 周りをきれいに山に囲まれ、真ん中にま~るく見えるその姿……本当に諏訪湖は見下ろして美しい湖である。もちろん今まで、このR20からだけではなく、周りの山々から下りる道から諏訪湖は何度も見たことはあるのだが、今回の目的は違うのであ~る。

 その目的を達成するべく、僕と四郎号は岡谷ICを越えてすぐに見えた「諏訪湖コッチ→」の看板を発見したので、どこの道かもさっぱりわからんところを看板にしたがって右折。真の男は目的を達成するためには、どこかさっぱりわからん道でも進まねばならないものなのである。しかし交通量もさっぱりなく、ほんまにこの道でええんかいな、と不安にすらなる。現実にはこんなもんである。

 途中にあったコンビニで弁当とお茶をゲット。ついでにお姉さんに道を尋ねると、まさしくこの道で正解とのこと。川を越えたところで左に曲がったらそこが諏訪湖です、とのこと。実際進んでみると、お姉さんに言われたとおり川を越え、左折するとそこはもう湖畔。

 あとは、お弁当に最適なロケーションを探るだけ♪

 今回の目的は「諏訪湖畔でお昼ご飯を食べる」。 きっと、のちに諏訪氏名跡を継ぐことになった勝頼公も、幼少の頃には同じように諏訪湖を見ながら食事をとったこともあるだろう……という勝手な思い込みだけで決めた目的なのだが、漢である僕にとってはそれが実在したできごとなのかどうかなどどーでもいいのである。ようするに、気持ちがよければそれでそれでオーケーなのだ。

 諏訪湖畔の県道16号線(通称さざなみロード)を走りながら中腰になって湖畔を覗いてロケハン(笑) しかしなかなかよい場所が見つからない。そのうち湖畔に沿って曲がるとそこは県道50号線。そして、見つけました!

 しかも、ご丁寧に、

「なんならここでお昼寝とかもしちゃっていいのよ~ん♪」

 と、まるで僕を誘惑するために魅力的に耳元で甘く囁くお姉さんのようなベンチもあるではないか。まずはジャケットを脱ぎ捨ててTシャツ一枚になり、僕は荷物から弁当とお茶をバッグから取り出してベンチにどっかりと座り、のほほんと昼めしとシャレこむことに♪

 メシはうまくもなんともない。けれど、どーよ、この景色。すばらしいではないか!

 勝頼公が初めてこの湖を見た時、どんなことを思われたのだろうか。勝頼公は信玄の四男として生まれたのだが、母は信玄が滅ぼした諏訪頼重(よりしげ)の娘。ここらあたりはまさしく戦国時代を象徴しているようにも思うのだが、軍神として近隣の信仰を集める諏訪大社を抱える諏訪の地を押さえることは信濃(現長野県)に侵攻していく信玄に必要だったこともわかる。諏訪の地を押さえること。それは諏訪の人間たちを手なずけることでもある。諏訪大社の大祝(おおはふり)であった諏訪氏を滅ぼしたのは信玄であり、その地の住民感情をなんとかするには、諏訪の血を引く男子で諏訪氏を再興することが最適と考えたのである。そしてその「男子」が、まさに勝頼公。「勝頼」というお名前に諏訪氏の通字である「頼」がつかわれていることからもよくわかる。やがて勝頼公は元服し、諏訪氏名跡を継ぐ。「諏訪四郎勝頼」と名乗ることになるのである。

 ところが勝頼公は諏訪の人々には受け入れられたが、甲斐(現山梨県)の人々に「呪われた血をひいた男子」というレッテルを貼られたことが悲運の始まりといってもよい。しかしここ諏訪の地では、そのようなことは一切関係ないので割愛したい。

 諏訪は勝頼公の地である。

 昨日とはうって変わってじりじりとした暑さすら感じる湖畔には、湖面をそよいで少しだけ冷えた風が届けば、コンビニのどこにでもありそうな弁当もうまく感じるというもんだ。

 しかし残念ながらというか、諏訪湖畔は周回の散歩道のようになっているらしく、このクソ暑い中、湖を見ながら昼メシを食ってるヤツがよっぽど珍しいのか、ランニングしてたおっちゃん、ウォーキングしてたご夫婦、イヌの散歩をしてたおばちゃん……通る人通る人がみんな僕を怪訝そうに見てたように思う。

 止まったところで暑さが収まるわけでもなし。というか、止まった方が暑いのがライダーなのだ。というわけで2日目の目的も達成し、腹もできたところで、この後の予定はまるでなし。

 メシを食いながらツーリングマップルを見たのだが、たいていは行ったこともあるので、「ココ!!」と思いつくところがない(今となっては日本全国たいていのところがそうなのだが…)。ちょうど時刻はお昼だったので、このまま帰るのももったいないなと思いつつも、再びさざなみロードを直進。すると、「高島城コッチ→」という看板発見。

高島城址

 そういや今日は松本城も見たことだし、城ついでに高島城にも久々に行ってみるか、と思い立って、そちらに向かうことにした。

 諏訪の町は小さい。

 道も当然細いわけで、僕は少し迷いながらも高島城に到着。城の裏手にある小さな駐車場に四郎号を止め、お堀づたいに歩いて大手門に向かう途中、カモのために作られた小屋を見つけた。 この暑さにカモもへばっているのか日陰に隠れるように休んでいたのだが、その小屋への上り板には、ここぞとばかりに亀たちが上がって甲羅干し。

 そこからてくてくと歩くと、高島城大手門。

 お城の規模から考えるとたいそうな印象のする大手であるが、それが逆に高島城の威厳を感じさせる。

 かつては諏訪湖に面しており、別名は「諏訪の浮城(うきしろ)」とまで言われた、いわゆる「水城」であったが、諏訪湖干拓が江戸時代に行われると単なる平山城となったのである。ちなみに城内の公園には、「ここにあった門からは直接諏訪湖に舟で乗り入れることができた」という石碑も残っている。ちなみに平山城としては国内最高の海抜(約760m)を誇ることはあまり知られてない。

 江戸時代の諏訪藩政庁として機能し、藩主・諏訪氏の本拠地として明治維新まで続くことになる。

 諏訪氏。そう。勝頼公の母系の実家である。諏訪氏は信玄によって滅ぼされ、その後勝頼公が一旦諏訪氏名跡を継ぐものの、伊那郡代として高遠城に、次いで政務継承のために躑躅ヶ崎館(武田氏居城)に移ったため、実質的に諏訪氏は再興されずじまいだったことになる。しかし信玄に滅ぼされた諏訪氏最後の当主・頼重の従弟である頼忠が、1582(天正10)年の勝頼公滅亡、ならびに本能寺の変により甲斐、信濃が一時的空白地帯になった際に、ここ高島城に入り諏訪氏家督を継承。その後の家康の信濃侵攻に敗れるものの、この辺り一帯(諏訪郡)を安堵されることになる。その後一時、武蔵・上野に移封となるが、子の頼水(よりみず)が再び高島城へと移封となり、明治維新まで続いた。

 諏訪氏と聞けば、僕にとっては主君・勝頼公のお里であるということで、他諸氏よりも断然親近感が沸くのである。それがたいして予定のないツーリングの途中に思いつきとはいえ寄ろうと思ったきっかけでもあった。そしてこの高島城を最初に築城したのは、諏訪藩初代藩主の日根野高吉(諏訪頼忠が他国に移封になっていた間に諏訪藩に移ってきた)なのだが、実はその日根野氏の出自は僕の大阪での本拠地なのだ。意外なところにつながりがあるものだ。

 高島城は二の丸、三の丸が現在では整備されて住宅街となっているが、本丸は公園として整備されて一般に開放されている。小さいながらも売店や回廊式の池付き庭園となっていて、僕と同じような観光客がいるかと思えば、近所の親子連れが元気に走り回っていたりする。むしむしする暑さにやられかけていた僕は藤棚の下で日光を避けながらよく冷えたジュースを飲み、しばし休憩。

 ここで時刻はもうすぐ1時になろうとしていた。ここから下道を走って帰れば、予定通りいけば5時間。名残惜しいけれど、そろそろ僕は15年ぶりに訪れた信濃國から撤収することにしたのである。

(つづく)