RIDER NOTES

BC-ZR750C乗りの残しておきたいログ

越前|1.一乗谷

 当初の予定通り5時に起床。

 キャンプツーリングを目論んでいたのだが、お誘いしていた浅吉さんからお断りの連絡が来ていた。それならば自分一人でどこかに……と思いながらすぐにネットで確認すると日曜が「曇り&雨」の予報。

 本来なら浅吉さんに連絡して日帰りで一緒にとは思ったが、時刻は5:20。まさかこの時間に電話を鳴らすわけにもいかぬ。行先をガラッと変更し、日帰りでプチッと走りに行ってみよう。浅吉さんごめんなさーい。

 そして、出しなに愛する奥様から行き先を問われた。だから、ボクはこう答えたさ。

 「ふっ……風に聞いてくれ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(=゚ω゚)つ)゚∀゚)グァ

bar「う、うそです……福井の方です……」
愛する奥様「よろしい」

 という会話があったかどうかは今となっては記憶が定かではない。

 出発にもたもたして結局高速に乗ったのは6時半近く。泉州連合会則第62条(だったっけ?)である「名神に乗ったら桂川PAに寄るべし」を違反し、思ったよりも寒い中、大津SAに着いたのが7時半すぎ。すると、バイク置き場にはすでに満杯のバイク。

 ボクが着いてからも次から次へとバイクがやってきては、みんなそれぞれ知り合いどうしで「おはよー!」とか挨拶してる。それもそのはず。今日は土曜日。おまけに祝日。ふだん平日にしか走れないボクがSAやPAでこんだけのバイクを見ることはほとんどない。

 「そーかー……。ライダーって関西にもいっぱいいてるんやなぁ…」

 ちょっと嬉しくなりながらも、きっちりと朝の儀式を済ませ、再び出発。

 大津SAから北陸道に分岐して少しするまでは朝だっていうのに結構な交通量。彦根を過ぎたくらいから車は減ったが、だんだん眠くなってきた…。むぅ……。これは意外とマズい。というわけで、見えてきた南条SAにピットイン。

 止まると暑くなってくるのもこの季節ならでは。ひー…と呟きつつ冬ジャケを脱いでポカリを買ってごくごく飲んで、ふと見ると、寝転がるのに最適なベンチ。

 どうぞこちらで寝てくださいと耳元で囁かれているような錯覚にとらわれる。見事に木陰になってるし。

 せっかく早起きしてきたのに寝るというのもどうかとも思ったが、まぁこんなこともあるさ。目が覚めるまで寝よっと……と寝転がった途端に、バカでっかいアナウンスの声。

 「えー、出展者のみなさまにお伝えいたします……」

 何事や…と起きてみると、

 SAの裏手にテントがいっぱい。なんと、南越前町産業物産フェア。

 よりにもよってここでしなくても…と思いつつ、そこは通勤の電車の中で立ったままでも寝れるbarちゃん。アナウンスに負けることなくいつのまにやら寝てました Zzzzz…

 起きて時計を見たら、寝てたのは30分くらい。するとアラ不思議。すっきり爽快になったのを感じて、福井ICまでバビューン。

 と行ってはいけない。なぜなら折りしも秋の交通安全運動の真っ最中。極めておりこーさんに走って福井ICで下りてR158へ。

 この道、信号も少なく、まーーーーーーーっすぐで、いかにも「好きなように飛ばして走ってください」なのだが、もちろんこーゆー道がアブナイ……なんて思いながら走ってたら、反対車線で白バイさんにきっちり捕まってる車がいらっしゃいました。

 そのうち、「一乗谷朝倉氏遺跡コッチ→」の看板が出てくるので、その通り(県道31号線)に入ると足羽川を渡ります。

 え~天気や~。しかし暑い……。それもそのはず。途中にあった電光掲示板では27度でした。夏やん。

 さて、今から目指す一乗谷。戦国時代を代表する朝倉氏の本拠地であり、今でいうなら某CMで有名な「白いお父さん」の故郷でもある。白いお父さんはいいとして、朝倉氏は武田氏と同じく、にっくき信長に滅ぼされてしまっているので、前世が武田家の家臣であるボクとしては何やら他人事とは思えないお方々なのだ。

 線路を越えるとすぐに見えてくる資料館。通り過ぎようと思ったら、

 当然、入りますよね?

 朝倉氏とは、広景(ひろかげ)を初代とする越前の戦国大名で、元は越前の守護(一番エライ人)・斯波(しば)氏に仕えたのだが、7代孝景(たかかげ)が斯波氏と対立。応仁の乱に乗じて同じ守護代(守護の次にエライ人)・甲斐氏を追って覇権を確立。正式に守護に任命された。その後、戦国時代になると若狭(福井県嶺南地方)や近江(滋賀県)にまで領土を広げたが、後に将軍・足利義昭を奉じた信長と対立するようになり、1570年の姉川での戦いで信長・家康連合軍に敗北。その後に対信長に軍勢を出してもまったく戦意のないような行動をとるようになり、1573年に信長の越前侵攻を受け、出陣を命じた家臣から拒否された。その前から職務を放棄し遊興に耽るようになっていた義景(よしかげ)には求心力はすでになくなっていたのだ。最後は信長の通じた従兄弟の朝倉景鏡(かげあきら)に裏切られて自害。最後に付き従ったのはわずか10数名であったともいう。享年41歳。裏切った景鏡は信長に降伏して所領を安堵されたが、その後起こった一向一揆で標的とされ戦死。

 何やら武田氏と通じるところもある。

(1)即滅亡したのではなく、その前に信長・家康連合軍に敗れる。(勝頼公は1575年設楽が原の戦いで大敗→1582年に滅亡)
(2)最後は重臣に裏切られる。(勝頼公は一門の穴山玄蕃、小山田信茂に裏切られる)
(3)最後まで付き従ったのは少数のみ。(勝頼公は40数名とも言われるが妻子や女房たちも含めるため実質10~20名か)
(3)裏切ったやつが非業の死を遂げる。(穴山玄蕃は本能寺の変後所領のあった駿河に逃げ戻る途中で落ち武者狩りに遭い死亡)

 うむぅ……。

 資料館前の地図を見てみると、平面復原地区(ただ発掘されたところをわかりやすくして見せるだけ)と、立体復元地区というのがあるらしい。もちろん平面よりは立体でしょ! 2次元よりも3次元。恋愛対象と一緒だ。

 そこから県道18号線へ入ると、そこが一乗谷

 朝倉氏の本拠地である。昔はな~んにもないところだった(と思う)んだけど、今は町おこしなのか「朝倉氏を大河ドラマに!」みたいな幟が立っちゃうくらい、観光地にしようと地元の方々が力を入れているようだ。

 昔は道端にちょろっと「朝倉館跡」って看板がぽつんと立ってたくらいだった(ような気がする)のに。武田勝頼大河ドラマ実現実行委員会委員長のボクとしても負けるわけにはいかん。

 では、立体復元地区へ。

(駐車場も砂利ですがちゃんとあります)

(裏庭。一軒ごとに井戸と厠(トイレ)があったらしい)

(意外と生々しい人形さんたち)

(全長約200mに渡って復原されている)

武家屋敷も一軒だけ復元されている)

 家に帰ってから知ってびっくりしたんですが、これらはもちろん発掘されたものをもとにしているとはいえ「模型」であり、ようするに「原寸大の立体模型」ということになるらしいです。

 とにかく暑くてたまらんものの(汗だく…)、せっかくなんで朝倉館にも行ってみます。立体復原地区からは歩いていける距離。

(詰の城・朝倉山城のあった山)

(唐門。館の正面の門)

(館の敷地内までは復元されてませんでした)

 他にもけっこうな観光客が来てたのだが、おじいちゃんおばあちゃんだけでなく若いカップル、そして女の子どうしで来てる方々も。やっぱり携帯はみんなソフバンなのか?

 時計で気温を計ってみると29度! こりゃもう冬ジャケは無理! と判断し荷台にくくりつけて出発。

(こう見たら谷になってるのがわかる)

 いや~、ポロシャツ一枚になるとなんて涼しい。

 来た道(県道31号線)を戻ると、「水の駅」というのがあって、その向こうに足羽川頭首工が見えるのだが、

 戦国ですな!

(つづく)