車に戻ってドアを閉めた途端、思わず「暑っ!」と声に出るほど車内は熱を溜め込んでいた。慌ててクーラーをMAXにし、着ていた上着を一枚脱ぐ。「ホントに12月かよ……」と呟きながら、次の目的地を探すため、Googleマップをぐるぐるなぞってみる。すると、ここ大神神社から30分ほどのところに今井町があることに気づいた。
大神神社と同じく、今井町も行ったことがあるにはある。もっとも、今でこそ重要伝統的建造物群保存地区の指定を受け、趣のある町並みの保全に力が注がれて、文化的にも経済的にも高く評価されているが、昔はそれほど名の知れた場所ではなかった(はず)。そもそも、なぜ訪れたのかすら思い出せないほどに記憶は淡い。あれからもうすぐ40年……時間も余裕があるわけだし、久しぶりに足を伸ばしてみるか、という気になった。
耳成山のすぐ脇を通り、畝傍の駅を越えると、いかにも古びた家並みがぽつりぽつりと現れはじめる。そういえば、こんな感じの道だったかな……。そんなことを思いながら、今井町近くの市営駐車場に車を置き、そこから歩き出した。
今井町は、16世紀半ば、大坂本願寺によって寺内町として築かれた。やがて、一向宗本願寺に呼応して織田信長に敵対することになる。中世の大和国(現奈良県)は興福寺や元興寺といった仏教勢力が強大で、為政者の支配を容易には受け入れなかった土地柄でもある。御坊(称念寺)を中心とする城塞都市として環濠に囲まれた町が整えられたが、最終的には天正3(1575)年、明智光秀を介して信長に降伏。
しかし、信長は今井町に「万事大坂同前」との朱印状を与え、自治権は守られた。その後、大坂や堺との交易によって町は大いに栄え、商業都市としての基盤が築かれていく。

江戸時代には、東西600m、南北310mほどの町域に1100戸、人口4000人を数え、「大和の金は今井に七分」と謳われるほどの経済都市へと成長した。ぼくが訪れて数年後の平成5年に重要伝統的建造物群保存地区に指定。中世以来の町割りはいまなお色濃く残り、現存する760戸のうち約500軒が伝統的建造物として保存されている。同一町内としては日本一の数だという。





思いがけず好天に恵まれた週末だったが、町は驚くほど静かで、人影もまばらだった。ひとりそぞろ歩きを楽しみながら、ぼくは遠い記憶を辿っていた。
そんなに古い話でもないはずだが、ぼくが訪れた昭和と平成の境目の頃の今井町は、もっと「生活の匂い」が濃く漂っていたように思う。扉から箒とちりとりを手に出てきた主婦らしき女性が、こちらに一瞥をくれただけで、家の前に散り落ちた何枚もの枯れ葉を一心に掃き始めるような、そんな日常が確かにあった。
今は完全に観光地化したわけではないにせよ、ずいぶんと整えられ、洗練された印象だ。




旧米谷家に隣接する棟続きの建物では中二階に上がることができ、かつて賑わっていた頃の今井町の写真が数多く展示されていた。写っている年代は、ぼくが子どもだった頃、すなわち昭和とほとんど変わらない。否応なく親近感が湧くが、少子化が叫ばれる今、これほどの賑々しさはもはや戻らないのかもしれない。


旧米谷家は、今井町でも珍しい広い土間や煙返しを備え、豪商の家でありながら、どこか農家風の趣を色濃く残す建物である。





こうした古民家に足を踏み入れると、かつてここで営まれていた人々の日常が、その息遣いまで聞こえてくるような気がする。


のんびり歩いてきたとはいえ、さすがに喉が渇いた。スマホで「コーヒー」と検索すると、町内にいくつかカフェが見つかる。その中でも比較的近かった一軒を選び、向かうことにした。

https://www.instagram.com/hakutaisaryo/
店先でメニューを眺めていると、中から「いらっしゃいませ」と、涼やかで柔らかな声がかかる。その声に誘われるように扉を開けた判断は、まさに正解だった。店主の飾り気のない朗らかな人柄そのままの、簡素で洗練された空間で、香り高いドリップコーヒーとりんごのコンポートを味わい、心から満足する。


聞けば、ここは元は裁判所だった建物をリノベーションしたのだという。天井は高く、開放感に満ち、居心地の良さは格別だった。
店名の「百代」は、『おくのほそ道』冒頭の一節、「月日は百代の過客(永遠の旅人)にして、行き交ふ年もまた旅人なり」に由来するのだろう。時代に翻弄されながらも、数百年にわたって生き抜いてきた今井町。その営みをこれからも未来へと手渡していきたい。そんな「百代=永遠」の時間感覚が、この名には込められているのかもしれない。
そして、通りすがりのぼくは、まさに「百代の過客」のひとりなのだ。そんなことを考えながらコーヒーの香りに包まれて過ごすひとときは、何とも幸福な時間だった。
帰宅後
スマホで撮った「凶」のおみくじを見せながら、

ばる「引いたときはどないしよかと思った。小吉に救われた」
愛する奥様「何をのんきなこと言うてんの」
ばる「え?」
愛する奥様「おみくじ、ちゃんと読んだの?」
ばる「何を?」
愛する奥様「その小吉も、『降る雨も慈雨と考え直す心持ちを持つならば』やで!」
ばる「は、はいっ!」
(おしまい)