ノクターンブルーの憂鬱

I remain unaltered by no ride on BC-ZR750C D5.

この想いを伝えたい

 少し前にその存在に気づき、一度行ってみたいと思っていた美術館があった。今回は、「明日やろうは馬鹿野郎」シリーズにならないよう、あらかじめマップにマークを付けておいた。奈良博からさほど遠くない、学園前駅に近い閑静な住宅街の中に佇む、大和文華館である。

 先日、「吉野・大峯」展で奈良博を訪れたとき、ふとそのマークを思い出して足を伸ばしたのだった。

 ついで、と言えば聞こえは悪いが、せっかく近くまで行ったのだから、その機会を見送る手はなかった。のんびり車を走らせて30分。着いた駐車場は妙にだだっ広く、苦笑いを浮かべてしまうほどに閑散としていた。

 大和文華館は近鉄創立50周年を記念し、「国民に美の殿堂を」という志のもとに創設された私立美術館だ。その志に恥じることなく、国宝4点、重要文化財31点という、質・量ともに圧倒的なコレクションを今に伝えている。

 現在開催中の特別展「想いを伝えるもの 和歌、手紙」は、古から人々が言葉に想いを託してきた様相を、一堂に俯瞰できる趣向になっている。

 奈良の学園前というと、文字通りの文教地区であるとともに、豪邸の立ち並ぶとてもお行儀の良い地域というイメージが、ぼくにはある。そんな空気感に溶け込むような静かな坂道を少し上ると、カッチョイイ建物が姿を現す。

 切妻屋根の和風建築と、すっきりとした現代的なライン。相反するようでいて、どこか調和している。中に入れば、その外観に違わず張りつめた静けさが漂っていて、それだけで自然と背筋が伸びた。

 展示室に足を踏み入れると、まず大和文華館が誇る国宝のひとつ、「寝覚物語絵巻」が正面から静かに出迎えてくれる。

 平安末期の傑作とされる「夜半の目覚」を絵巻物にしたものだ。いかにも王朝文学らしい薄幸の主人公・寝覚の上に懸想した帝が、彼女からの手紙を読むワンシーンだ。帝は涙を流し、それを見られまいと袖で顔を覆う一瞬である。千年も前の人が、誰かを想って手紙をしたため、それを読んで涙をこぼす。そんな場面が、絵として今に残っている。不思議なことに、その感情は古びていない。むしろ、妙なほど生々しく、胸に迫ってくる。

 歴史上の人物の手紙も、いくつか展示されていた。細川幽斎や石田三成、小堀遠州、芳春院。名前だけ見れば、いかにも歴史の中の人だが、書かれている内容は驚くほど素朴だった。相手への気遣い、迷いの滲む言葉、ささやかな日常の断片。教科書では決して見えなかったものが、くずし字の向こうからふっと顔を出す。

 さらに、重要文化財である佐竹本三十六歌仙切「小大君像」も並ぶ。

 そしてもう一つの国宝、「婦女遊楽図屏風」。俗に「松浦屏風」とも呼ばれる、近世初期風俗画の金字塔だ。

 去年、大阪市立美術館で開催された「日本国宝展」でも見ているから、ぼくは二度目のご対面になる。あらためてよく見ると、手紙をしたためている女性の姿がある。この展示のテーマ「想いを伝えるもの」に引き寄せられるようにして、彼女もまたここに呼ばれたんだな、と柄にもなくほんの少し甘美なことを考えた。

 ふと、思う。ぼくは最近、誰かに向けて丁寧に言葉を届けただろうか、と。

 現代で言えば、メールやメッセージアプリがある。手間がかかる分だけ想いが深まる、などと安易に昔を礼賛するつもりはない。便利さの恩恵は、日々骨身に染みている。でも、「すぐ送れる」せいで、言葉を選ぶ時間も、静かに削られている気がする。

 筆を選び、墨を磨る。その時間の分だけ、人は使う言葉のことを考えていたはずだ。手間があったからこそ届いたものが、きっとあったのだ。

 一方で、想いが伝わらないという点では、昔も今も変わらない。袖で涙を隠す帝と、「誤爆」に青ざめる現代人。形は違っても、本質はずっと同じだ。

 伝わるかどうかはわからない。それでも、この想いを伝えたい。ただそれだけで、ぼくは今日も文章を書いている。